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第20回惟喬親王祭

第20回惟喬親王祭

八日市から車を走らせること1時間。私の非力な軽自動車はウンウンと唸りながら、蛭谷の急な坂をなんとか登り切りました。車を降り、ドアをばたんと閉めるとあたりはしんと静まり返り、物音ひとつしませんでした。圧倒的なまでに空は近く、空気は澄み、市街地と比べものにならないほど涼しい風が吹いていました。

7月16日、東近江市永源寺蛭谷で「第20回惟喬親王祭」が行われました。これは、蛭谷の筒井八幡で行われている祭事で、惟喬親王(844~897)を祀るものです。

惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子にもかかわらず、政治的な企てのために皇位を継ぐことができませんでした。そして、永源寺の奥深い山里に隠れ住んでいたそうです。そんな親王は、巻物の軸の回転から、ろくろによる加工を発案したため、「木地師」の祖といわれています。木地師というのは、栃や樗などの木材を「ろくろ」と呼ばれる道具で削り出し、器等をつくる職業の人たちのことをいいます。

この奥永源寺をルーツとし、全国に木地の技が広まっていきました。現在でも、全国各地で木地の技による工芸家がたくさんおられます。こうした末裔たちの行き先を追跡した「氏子狩帳」が今でも残されており、明治まで「氏子狩」が行われていたそうです。こうした資料は、今でも「木地師の里資料館」で見ることができます。

今回の親王祭にも、全国から木地師として活躍されている方がたくさん来られていました。会津や山中など遠方から来られた方々は、自らのルーツに対する畏敬の念を未だに持ち続けている、と語っておられました。

当日は快晴で、空は突き抜けるように青く、会場となった筒井八幡の幟と同じ色をしていました。朝から笛の音が響く中、地域の方々が玉串を奉納され、厳かに神事が執り行われました。そして、語り芝居「惟喬親王物語」が、木地山まみさんにより上演されました。

午後は、「山の子の家」で藤岡康弘さんの「びわ湖の森の紹介」、映画「奥会津の木地師」上映、川北良造さんによる「木と生きる、木を生かす」、姫田忠義さんと小椋正清さんによる「木地師文化が教えるもの」の記念講演が行われました。また、同会場では、全国の木地師や、人間国宝である川北良造さんの木地作品が展示されていました。

木地製品はそもそも、日常使いの道具として普及していました。しかし、安価なプラスチック製品の台頭により、人々のくらしから木製品は消えていきました。今は、日用品というより、工芸品として、その美しいシルエットが楽しまれています。そして、工芸品でありながら、幾重に重ねられた漆が、軽さと丈夫さを兼ね備えさせ、日常に使用することも可能にしています。それは、自然と人が共存していた時代の一つの結晶でもあります。

また、今回は20回を記念し、民族文化映像研究所の姫田忠義さんがお越しになられました。姫田さんは、映画監督として、また民俗学者として、大いなる足跡を残しておられます。

今回、奥永源寺に伝わる木地師文化について、お話をされました。そのお話の中で、「人間を考えるとき、他の生物と切り離して考えることはできない」という問題提起がありました。

他の生き物と切り離されて生きている「人間」と、自然の調和の中で生きている「他の生き物」の接点はいったいどこにあるのでしょうか。小椋さんは、「利便性と快適性の中で、木地師文化が廃れていった」という問題提起をされました。

そして、対談の中、「もう一つの豊かさの指標」が必要さという話がありました。カネやモノではない、新たな価値観の創出が重要となるのでしょうか。

酸素吸入器をつけ、ゆっくりと発せられる姫田さんの言葉は、的確に現状を捉えた鋭いものでした。言葉で伝えるのは難しいのですが、一つ一つの言葉に重みがあるのです。宮本常一氏を師とし、滅びゆく日本の原風景を眺め続けた眼差しが、これらの言葉に重みを与えているのでしょう。

山は登るのではなく、越えるものだ。

なぜなら、そこに人がいるからだ。

人に会いに行くために、山を越えるのだ。

自然と生きることを捨てた私たちが失ったのは、木地師の文化だけではないでしょう。ダムに沈んだ奥三面の人たちは、「生きるためにあらゆることをやった」といいます。山から、川から、自然の中から生きる術と糧を取り出してきた先人たちの「生きる技術」はそのほとんどが滅びの危機に瀕しています。

311以降、日本の未来も人のくらしも大きく変化しています。その中で、大量生産・大量消費をよしとする旧世代の価値観が、これからの生き方の足を引っ張っています。自然と共存し、その「あがり」の中で生きていく。その知恵を先人に学ぶとき、惟喬親王の伝承や姫田さんの映像作品は、新たな時代の指針として、大きな価値を獲得していくのではないかと思いました。

帰り道、再び非力な軽自動車をウンウン唸らせながら、「徒歩なら風を感じられたのに」と考え、少しエンジンを切って、車を降りてみました。鳥の声や川のせせらぎが聞こえ、遠くで誰かが人を呼ぶ声が聞こえました。私たちは、こうしたくらしに再び戻ることができるのか、と考えたとき、私たちはそこへ「戻る」のではなく、そこへ「行かねばならない」のだと思いました。私たちは、未曾有の危機の中、新たな時代のライフスタイルのヒントを、山村のくらしの中に得なくてはいけない。そのために、もっともっとそれらの魅力を伝えていかなくてはいけない。そう実感しました。